古代偶然説 納豆は日本生粋の古代からの味。産まれたのは、すでに野菜の煮焚きなどが行われていた弥生時代と推測されています。当時の住まいには、ワラで編んだ敷物が使われていましたが、ある時、その敷物の中に煮豆(大豆)が落ち、日を経て納豆と化しました。それを見つけた住人がその香ばしい匂いに釣られて口に入れてみると意外においしく、以後、煮豆をワラに包んで発酵させる料理=納豆が人々に広まっていきました。
聖徳太子説 時は聖徳太子の時代。当の聖徳太子が愛馬にエサの煮豆を与えていたところ、量が多くて余ってしまいました。捨ててしまうのももったいないと考えた太子は余った煮豆をワラに包んで保存します。数日経ち、ワラを開けてみた太子はびっくり。煮豆が糸を引いています。不思議に思いながらも、その糸引き煮豆を食べてみた太子は二度びっくり。なんとも美味しい豆になっていました。そこで太子はそれを人々に教え、以後、煮豆をワラに包んで発酵させる料理=納豆が広まっていきました
源義家説 時は平安時代。源義家という武将が現在の秋田県にあたる地で戦に臨んだ際、想定外の長期戦に食糧が不足してしまい、地元の農民たちに大至急の食糧供出を命じました。あわてたのは地元民たち。しかし、当時勇猛果敢で恐れられていた義家のこと、怒らせては大変と、ちょうど大量に収穫していた大豆を煮て、それが冷めるのも待たずにワラに包んで義家軍に差し出しました。それから数日後、煮豆を保存しておいた蔵から香ばしい匂いが漂い始めます。不思議に思った義家の家来がワラを開いてみると煮豆が糸を引いています。試しに口に入れてみると、これまでなかった味わいです。そこで家来はその糸の引いた煮豆を義家の食膳に出すと、その美味さに義家も大喜び。その話は煮豆を差し出した地元民にも伝えられ、「納豆」という新しい料理は、義家の活躍談とともに広く伝播されていくことになりました。 なお、この義家を始まりとする伝承は各地にあり、「水戸納豆」の地元である茨城県に伝わるものでは、義家が戦遠征で常陸の地に立ち寄った際の話となっています。馬に乗せた荷の中のワラ束に変色した煮豆を発見した義家。「もったいない」と食べてみたところ、たいそう美味しかったというのがその内容です。
光厳法皇説 時は南北朝時代。光厳法皇というお方がおられました。この法皇は覇権争いの犠牲になって出家を余儀なくされ、丹波山山中の寺で修行していました。しかし、それは島流しも同然の出家。法皇は華やかな都暮らしから一転した貧しい生活を余儀なくされていました。そんな法皇に同情した地元民がある年の年末、大量の味噌煮豆をワラ束に包んで法王に献上します。民の温かい気持ちに涙するほど喜んだ法皇でしたが、なにしろ煮豆の量が多くてとても一度に食べきれません。そこで毎日少しずつ食べていたのですが…ある日、煮豆に糸が引いています。「しまった、豆を腐らせた」と悔んだ法皇でしたが、地元民の気持ちを大切にしたいとその豆を食べたところ、なんともとの煮豆よりも美味しい豆になっていました。そのことを法皇から聞いた地元民たちもさっそく、糸の引いた煮豆を作り始めました。これが納豆の起こりとか。
加藤清正説 時は豊臣秀吉の治世の世。秀吉の命で朝鮮に出兵した加藤清正は戦地で食糧の調達に苦労していました。その日も少ない食糧に腹を空かせていた清正は、荷物運びの馬の背中からうまそうな匂いがしてくることに気づきます。はて、なんだろうと馬の背に乗せてあったワラ束を開いてみると、入れてあった煮豆が糸を引いています。ただでさえ乏しい食糧を腐らせてしまったかと落胆しつつも、その香ばしい匂いにつられて糸引き煮豆を食べてみると…「これは美味い!」。この話はやがて、秀吉にも伝えられ、納豆がくらしの中に定着していきました。 否定・肯定も各説入り乱れて…。 どうでしょう。ワラと深い関わりがある点ではすべて共通していますが、これだけ納豆発祥説があると、何を信じて良いのやらという気になりますね。しかも、各説にはそれを否定する意見や学説も少なくありません。 とりわけ古代説には、家屋内の敷きわら程度の温度で煮豆が発酵する可能性が低すぎるという確率的・科学的見地からの否定論があります。また、奈良時代の文献に納豆と思われ記述が無いため、それ以前から納豆があったとは考えにくいとする文献説も古代発祥の否定意見です。
逆に、説その5の加藤清正説については、現在の糸引き納豆に該当する食品の記述がすでに室町時代の文献に見られることから否定意見が多く、加藤清正の武勇伝とともに伝播された伝説的俗説と考える研究者が多数を占めているようです。 おまけにこれとは別に、平安時代の寺のキッチンは納所といい、そこで作られていた豆加工品だから「納豆」…という名前の起源に関する意見もあり、納豆発祥の謎をさらに混乱と混迷へ誘いこんでくれています。結局のところ、納豆発祥の謎は深い霧の中へ…その答えを見出すことは、納豆の強烈な匂い同様に一筋縄ではいかないようです。
日本人の朝食の定番というイメージがありながら、実は「苦手!」という人も多い納豆。これほど好き嫌いの分かれる一品もないとまで言ってよいでしょう。 たとえば、いくら味噌汁が嫌いでも、「味噌汁を飲むぐらいなら離婚する~!」などという騒ぎが起きるという話は聞きません。ところが、こと納豆に関しては、ネット上の意見などを見ても、(冗談半分とはいえ)「納豆を食べるくらいなら別れる!」という物騒な意見がちらほら。また、外国の方が日本の食生活の中で一番苦手なのが納豆だというのもよく聞く話です。これは何よりも、納豆が個性の強い食品であるために起こる現象でしょう。 しかし、個性の強さはそのまま大きな魅力にもなるものです。それを証明するのが納豆好きの意見。これがまた、半端ではなく熱く強烈です。まさに「納豆命!」の勢い。探してみれば、現代人気作家の嵐山光三郎氏や椎名誠氏など、多くの有名人が納豆賛美の文章を書いています。そしてそれらは文章の巧みさも手伝い、納豆の魅力を雄弁に伝えてくれています。 これに対して「命をかけて納豆が嫌い」という意見はあまり見受けられません。これは、納豆反対論を唱えるよりも、基本的に納豆に関わりたくないという雰囲気のようです。何かを貶めるには、その対象物のことが正しく解らなければ意見に説得力を持ちませんが…納豆嫌いにしてみれば「解りたくもない!」ということなのでしょうね。
「大好き派=関東人」、「大嫌い派=関西人」はほんと? 納豆の好き嫌いには地域性も大きく関係しているようです。概して東京を中心とする東日本では納豆大好きの擁護派が多く、大阪を中心とする西日本では納豆苦手派が多いのは皆さんも知るところでしょう。では、この違いはどこから来るのでしょう。味覚?匂い?それとも納豆ならではのネバネバ?いえ、いえ。実はこの違いは単に馴染みの問題ではないかというのが今では意見の主流となっています。
納豆が庶民生活に定着したのは江戸時代のこと。当時すでに関西地域と江戸の街との間に充分な交流があったとはいえ、中には流通ルートから抜け落ちるものもあります。ましてや納豆は江戸の街で充分な量が売れていました。そんなことから、納豆はなんとなく「関東の味」のイメージが定着してしまったようです。それが面白いことに、明治維新を経て、さらに日清、日露、第一次世界大戦、第二次世界大戦という激動の時代までも越え、かつ、納豆が軍用食として認められても変わらずに過ぎていったようです。 そうした傾向が変化したのは、なんと昭和60年代。ナットウキナーゼと呼ばれる健康成分が発見され、納豆は健康食品としてスポットを浴びることとなり、その頃を境に関西圏でも納豆の消費量が増加し始めました。つまり納豆は、昭和60年代になってようやく「朝ご飯のおかず」としての全国区スターになったのです。もっとも、今でも、やはり納豆大好き派は関東が関西を大きく上回ってはいるようですが。
総務庁の調査によると、世帯別の納豆の購入額は完全に東高西低。1年間で納豆購入に使う金額はといえば、やはりトップを争うのは、水戸市を擁する茨城県とお隣の福島県。もっとも、本場であればダントツトップでも良さそうな…と思われますが、これはあるいは、「うちで作ってるから…」という世帯が多いということなのかもしれません。なお、これに続いていくのは関東地方の各県、そして東北の各県。 逆に、納豆購入額が低いのは、四国4県と近畿地方の各県。とりわけ、大阪府と兵庫県の購入金額は最下位争い。 "関西人=納豆嫌い"を証明するかのような結果です。ドラマなどで出てくる「関東VS関西」の「納豆は美味い!VS納豆なんぞ食えるか!」は、今でもあながち外れてはいないのでしょうか…?
最近はフィルムパッケージや紙パッケージに入って売られていることが多い納豆。昔々は量り売りで売り買いされていました。売っているのは、天秤棒を担いだ行商人。天秤棒にぶら下がっているのは、ザルにワラを敷き、その上に盛られた出来立ての納豆。「なっと、なっと~♪」という掛け声が江戸の町の早朝の風物詩でした。
もっとも、この納豆は一夜づくりされた納豆。これとは別に店舗を構えたお店などでは、量り売りの他に、一夜づくりの納豆を一定量ワラに包んで保存した本格的な納豆も売られていたといいます。面白いことに、それが主に売られていたのは、材料を同じくする豆腐屋さんかと思いきや、なんと漬物店。当時の庶民たちにとって、保存して熟成した納豆は「漬物」の感覚だったのでしょうか、それとも単に強烈な匂いのためでしょうか。なんとも不思議な納豆の立ち位置ですね。
なお、納豆の売り方に大きな変化が起きたのは、世も変革期の明治維新の頃。それまで、ザルに盛られ、行商で売られていた慣習に疑問の声が上がります。その理由は「不潔では?」というもの。確かに、ザルに盛られ、せいぜいその上からワラや布などが軽くかけられるだけで売られていた納豆。行商ですから、土やほこりなどが混じってしまう可能性が充分にあります。なにしろ明治という時代は、西洋思想の影響を受け、清潔志向が高まった時代だけに、その声は研究者や行政だけでなく、庶民の間でも次第に大きくなっていきました。 そこで注目されたのが、納豆の発祥と深く深く関わってきたワラの束。江戸時代からすでにベースとなるワラ包みが存在したこともあり、それをそのまま包装として使えば良いではないかということになったのです。かくして、現在、水戸納豆に代表されるワラ苞(つと)に入った納豆が一般化されていきました。
ザルに盛られた姿からワラ苞姿に変わった納豆。次の変身は大正時代。この頃になると、それまで昔ながらに土間の作業場などで作られていた納豆の製造作業が変化。衛生面に気が配られるようになり、包装のワラ苞も多くが経木(紙のように薄く製造した木製包装用品)や紙の箱に取って変わられていきました。さらに、昭和50年代になると製造工程がオートメーション化。包装も、今現在私たちがよく見るフィルムのパッケージ姿へと主流が移っていきました。
時代とともに変化していった納豆の包装。しかし、"いかにも納豆"のイメージといえば、やはりワラ苞。こちらのほうも、昔ながらの懐かしくも温もりのある表情そのままにしっかり生き残っています。それを代表するのが美味しい納豆といえば…の水戸納豆です。 一度は「不潔で古臭い」というイメージから否定されたワラ苞ですが、衛生面が完全にクリアできれば問題は解消。ワラ苞に包まれた水戸納豆はむしろ、本場の味、本物の味の納豆として、昨今、改めてその人気と価値が高まっています。もっとも、実はこれには本場・水戸の納豆製造者たちの寛容精神としたたかな戦略が潜んでいます。というのも…。 水戸納豆の人気が高まってきた頃、その人気にあやかろうと、水戸でつくられたわけでもないのに「水戸納豆」を称する納豆が多く出回った時期がありました。これは、今風にいうなら「偽装」です。そうした風潮に一時は怒り、あるいは困惑した水戸の納豆製造者たち。しかし、彼らはあえて偽装の業者たちを追い詰めませんでした。その結果、「本格納豆=水戸」のイメージはますます強固に。また、偽装はしても、不味い商品は売れなくなりますから、悪質な業者は自然に駆逐されていきます。それどころか、美味しい納豆をつくろうとして水戸に工場を移し、本物の「水戸納豆」を製造する努力を始めまる業者が増えていきました。かくして「納豆といえば水戸」、「ワラ苞に入った水戸納豆は美味い」は世の常識といえるまでに…。これはそのまま、あわてず騒がす、納豆の粘りのように、粘り強く良いものをつくり続けた水戸の製造者たちの勝利のかたちといえるでしょう。